歴 史

 

出雲教の歴史〔「北島国造家沿革要録」(非売品:出雲教にて授与)より〕


目次

1.出雲国造北島家の始祖

2.出雲国造の任命と国造家の姓(かばね)

3.出雲国造神賀詞(かんよごと)の奏上

4.出雲大社神主職と検校職

5.建武中興と孝時国造

6.出雲国造家の分立

7.出雲国造北島家と大庭の里

8.出雲国造家の家名

9.出雲国造家の通り名

10.出雲国造北島家の専掌祭事

11.南北朝動乱と貞孝国造

12.資孝国造の出雲大社遷宮執行

13.寛文御造営にともなう屋敷替え

14.霊元天皇永宣旨の御下賜

15.明治維新と出雲国造家

16.出雲国造家系譜



1.出雲国造北島家の始祖

 出雲国造北島家の始祖は、皇室の御祖(みおや)、天照大御神の第二の御子神の天穂日命(あめのほひのみこと)です。そして、北島家は天穂日命の後、今の国造家の当主第八十世建孝(たけのり)国造に至るまで系統連綿として続いている由緒正しい家系として、古くから国内に知られてまいりました。

 日本書紀によりますと、神代の昔、天つ神の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は天照大御神の御孫瓊々杵命(ににぎのみこと)が今の日本国を統治なさるのがよいと望んでおられました。当時の日本国は、各地方を多くの国つ神が治められていましたが、そうした国々の中で、大国主命が「くにづくり」された葦原中つ国は、大国主命の御神徳によって立派に治まっていた国でしたので、この国を瓊々杵命に譲ってほしい旨を大国主命に申し入れる為に、天穂日命とその御子武夷鳥命(たけひなどりのみこと)を国の中心であった出雲の国に派遣なされ、次いで武甕槌神(たけみかづちのかみ)、經津主神(ふつぬしのかみ)を重ねて派遣されて大国主命と談判されました。

 この申し出を(いろいろ経過があったと神話は伝えていますが)結局は大国主命はお受け入れになり、いわゆる「国譲り」の大業が行われました。高皇産霊神はこのことを大変お喜びになり、次のように申されました。「大国主命様、貴神がこれまで治められていた顕露(あらわ)のことは、これからは吾が子孫(歴代の皇室を指す)に治めさせましょう。然し大国主命、貴神はこれからは幽(かくり)の事を治めてください。貴神の御住居として天日隅宮(あめのひすみのみや)(出雲大社の別名)を直ぐにお造り致させましょう。その宮の柱は高く太く床は広くて厚い壮大な宮とさせましょう。そして貴神をおまつりすることを天穂日命に命じ御奉仕させましょう」と。

 皆様方も、上のことから、出雲大社の創建の由来をご理解くださり、天穂日命が出雲大社に奉仕なされ、大国主命に神仕えなさったことがおわかり下さると思います。この天穂日命が出雲国造北島家の始祖で、天穂日命の御子、武夷鳥命より累代出雲大社の斎主としてご奉仕なさることになりました。

 註:「顕露のこと」と「幽のこと」

 「顕露のこと」とは今で云えば政治を行うことで、「幽のこと」は目に見えない諸々の事柄の奥にひそむ宗教的根源、あるいは顕露の背後にある精神的哲理ともいうべきもので、ここが他の神社と出雲大社が違うところです。

上へ戻る

2.出雲国造の任命と国造家の姓(かばね)

 天穂日命が出雲大社に御奉仕になって以来、その子孫が代々出雲大社の斎主として神勤奉仕なさっていましたが、第12世氏祖命(おほしのみこと)の代になって、崇神天皇(すじんてんのう)の御世、国の制度として国造職が定められ、氏祖命以降しばらく出雲の国の国造職を兼務されることになりました(国造本紀による)。ここで注意したいのは、国造職は国の制度の上では廃止になりますが、出雲ではなぜかこの職名が習慣的に残り、中世、近世の公式文書にも記録されています。最初は国の職名であったものが敬称として残り、今日に至ったものと思われます。また、当時は一般には家の姓がないのが普通でしたが、国造家第17世国造宮向の時代に「出雲」の姓を賜ったことが、当家所蔵の建保2年(1214)8月新院庁御下文(おんくだしぶみ)に記されています。

上へ戻る

3.出雲国造神賀詞(かんよごと)の奏上

 醍醐天皇の延喜の御世に定められた今でいう法令集は延喜式と呼ばれ、今でも歴史研究の上に大きな役割を果たしています。その延喜式の中に臨時祭式という項目がありますが、それによって「出雲国造神賀詞奏上」の式次第や、「神賀詞」の全文を知ることが出来ます。

神賀詞奏上は出雲国造がその任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって行われていました。それは、先ず国造が朝廷に参内して国造に任命され、負幸物(おいさちのもの)〔金装横刀1口(ひとふり)・絲20絇(く)・絹10疋(ぴき)・調布20端(たん)・鍬20口〕を賜り一旦帰国し、潔斎すること1年、その後ふたたび参内して出雲国造神賀詞を奏上します。このとき、国造が諸祝部(はふりべ)並びに子弟等を率いて入朝したことや、数々の献上物を奉ったこと、又その式が神祇官長自らが監視し、あらかじめ吉日を卜(ぼく)してその旨を奏聞し、宣旨の下で斎行されたこと等、細々とした点に至るまで延喜式に記されています。

また、延喜式には神賀詞の全文も記されており、その内容から考察いたしますに、この神賀詞は、国造潔斎の1年間、出雲186社の神々と、特に出雲大社に朝廷と国家の安泰を祈願したことを朝廷に復命する性格のもので、神賀詞に神の字が付けられているのは、国造が神々になり替わって奏上したことによると思われます。また、神賀詞は既述の出雲大社創建の由緒、即ち皇室が顕露のことを治められ、出雲大社御祭神が幽のことを治められるという御神徳により斎行されたと見るべきでしょう。

出雲国造神賀詞奏上のことは、国造家に伝存する『出雲国造家系譜』の注記によれば、第26世国造出雲臣果安が元正天皇の霊亀2年(716)2月に、第27世国造出雲臣広島が聖武天皇の神亀元年(724)正月に、第28世国造出雲臣弟山が崇謙天皇の天平勝宝2年(750)2月及び3年(751)2月に、第29世国造出雲臣益方が称徳天皇の神護景雲元年(767)2月及び2年(768)正月に、第31世国造出雲臣国成が桓武天皇の延暦4年(785)2月及び5年(786)に、第32世国造出雲臣人長が桓武天皇の延暦13年(794)2月に、第34世国造出雲臣旅人が嵯峨天皇の弘仁2年(811)3月及び3年(812)3月に、第35世国造出雲臣豊持が淳和天皇の天長10年(833)4月に夫々国造新任に際し参内し、神賀詞を奏し物を献じ、位を賜った事が記されています。これらの記述は続日本紀、日本後記、類聚国史等の正史(国家が編纂した歴史書)に記されている記述と一部異なる部分がありますが、参考までに記しておきます。

出雲国造家がこのように手厚い処遇を受けたのは、出雲大社御祭神大国主命が神道(宗教)を通し、陰から朝廷を護られ、出雲大社に奉仕し、また代々の国造もよくその思想を理解したがために賜った光栄であることを今も肝に銘じ、神勤奉仕に励むのが国造家の道であり栄誉でもあります。

上へ戻る

4.出雲大社神主職と検校職

 出雲大社国造家の長い歴史のなかでは、いろいろな危機があったと思いますが、これから記す事件は一番大きな危機でした。

 時代は平家が滅亡して源頼朝が幕府を開いた頃です。頼朝は平家との戦いに勝った有功の将士に恩賞として職を与えました。そのときまで国造家の所職であった惣検校職(そうけんぎょうしょく:社寺の事務を監督する職)を、頼朝は文治2年(1186)5月第49世国孝房から取り上げ、中原資忠の武功を賞してこれに与えました。こうした事情から、中原氏が出雲大社の神事を自ら行うなど、国造家と中原検校とは対立し、険悪になって行きました。そうした頃、建久元年(1190)6月の出雲大社の御遷宮が行われましたが、孝房国造の訴えが入れられて惣検校職が還補され、孝房国造により無事御遷宮が斎行されたと伝えられています。

 しかしながら中原氏はその後も出雲大社神主職にとどまって、第49世孝房国造から第52世義孝国造まで、中原資忠と4代(その孫孝高、その子實政、その子實高)の間、惣検校職をめぐる争いが続きましたが、ついに義孝国造の時代に中原氏の職は解かれました。惣検校職は国造家に還補されてその後は紛争も一切なくなり、義孝国造は永年の弊を革新して中興の祖となられました。

 以上の史実は孝綱国造の拝受された建保2年(1214)8月付けの「土御門(つちみかど)上皇の院宣(いんぜん)」いわゆる新院庁御下文(おんくだしぶみ)、また義孝国造の受領された文永2年(1265)3月20日付け「六波羅沙弥證恵の執達状」並びに建治2年(1276)2月付け「鎌倉将軍惟康親王御教書」によって知ることが出来ます。なお、これら3通の古文書はいずれも重要文化財で、出雲国造北島家が所蔵しています。

上へ戻る

5.建武中興と孝時国造

 第54世国造孝時臣は父泰時国造から国造職を譲り受け、延慶元年(1308)その任に就き、29年間国造職を勤められました。

 ちょうどこの頃の元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇は北条高時により隠岐に島流しの身となられました。しかし、後醍醐天皇は翌年の元弘3年閏2月の早朝、深い霧に隠れて漁舟で出雲の国にご無事に着かれ、伯耆国の名和長年が天皇をお助けして、船上山に陣を敷かれました。そして、この船上山を仮の皇居として諸国に天皇自ら手紙を出され、味方となる将兵を募集なさいました。

 この時、天皇方が戦に勝ち、政治が再び天皇のもとに帰ることを出雲大社に書簡をもって祈願されました。これが有名な同年3月14日付けの「皇道再興の御綸旨(ごりんじ)」であります。この御綸旨(天皇からの御手紙)を受けた出雲国造第54世孝時は、ただちに出雲大社の御神前に真心を込めた御祈念をご奉仕いたしました。

 後醍醐天皇はその直後の3月17日付けで重ねて出雲大社に対し「社宝である剣を天皇ご自身がもらい受けたい」旨の綸旨をお出しになりました。

 このときも孝時国造は、天皇のご命令を謹んで受けられ、宝剣一口を献上されました。天皇は孝時国造の忠誠心を非常にお喜びになり、同年4月11日付けの綸旨で出雲大社に対し国富庄(くんどみのしょう)氷室庄(ひむろのしょう)を御寄進になりました。このように天皇が御自ら努力を重ねられた甲斐あって、国内各地で天皇に味方する兵士が立ち上がり、同年5月23日天皇は伯耆の船上山を出発され、6月4日には都にお帰りになりました。こうしてかの建武中興の王政復古の偉業が成し遂げられましたが、この時、孝時国造のかつてのご祈請の効をたいへん感謝され、出雲大社への神恩報謝のお気持ちで、建武2年(1335)5月26日、杵築大社(今の出雲大社)に肥後国八代庄(やつしろのしょう)を御寄進くださる御綸旨をお授けになりました。この四通の御綸旨は出雲大社の社宝として大切に保管されていますが、これによって出雲国造家第54世孝時の後醍醐天皇に対する忠誠を知ることが出来ます。

上へ戻る

6.出雲国造家の分立

始祖天穂日命以来、第54世孝時国造まで出雲国造家は一統で続いてきました。時あたかも南北朝時代に及び、時代の風潮もあってか、第55世清孝国造の後をめぐって兄弟の間に争いが生じ、以後北島・千家と分立することになったのは当時の時世とはいいながら残念なことでありますが、今となっては止むなきことで、両家共国造家の格式を重んじて共々繁栄しなくてはなりません。

しかるに世間一般では、とかく両家の本末を論じ、その黒白をつけたがっている向きもあるようですが、このことは厳に謹まねばならず軽々に論じてはなりません。しかし、どうした訳か一部の辞典など出版物に、分立の史実を誤って記されているケースが見受けられます。その代表的な例は、清孝国造をめぐる血縁関係について「清孝と千家家の祖となった孝宗は父子、清孝と北島家の祖となった貞孝は兄弟」というもので、このことは史実と異なっています。

北島国造家所蔵の重要文化財である306通の古文書のうちの1通に下図のような当時の系図があります。

 上の系図によれば、清孝、孝宗、貞孝は父を孝時、母を妙善とする兄弟であることは明白で、今日では千家家でも清孝、孝宗、貞孝が兄弟であることは認めておられると理解しています。

 国造家の分立について、北島家は父孝時国造の家督を相続した家系であると主張し、千家家は第54世のあと、第55世国造となられた(孝時国造は一期間と命じている)兄清孝から受け継がれた家系であり、それに付随して両家夫々に吾が家を本家と主張していますが、歴史を論ずるには史料に基づいて論じなくては無意味であります。

 昭和28年に発行された「季刊神道史学第4輯」に、当時東大史料編纂所所員で国学院大学教授を勤められていた村田正志博士による『出雲大社の古文書』という論文があり、本件に関して次のように述べられています。


「千家・北島両家の所伝に相異なるものがあり、それに伴う両家の間に争論が生ずることとなったのである。即ち千家方は

1.文保2年(1318)11月14日孝時去状

2.建武2年(1334)8月10日孝時譲状

3.康永2年(1343)3月28日清孝譲状

4.康永2年(1343)5月16日妙善書状

5.応安4年(1371)12月19日孝宗譲状

などの文書により、両職は孝時よりその子三郎清孝に伝わり、更に清孝の弟孝宗に伝わり、孝宗よりその子孫に伝わったというのである。これが千家氏である。


 しかるに北島方では

1.建武2年(1335)11月2日孝時譲状

2.建武2年(1335)11月15日孝時置文

3.建武3年(1336)6月2日覚日書状

4.建武3年(1336)6月5日塩冶高貞下知状

5.建武3年(1336)7月23日塩冶高貞下知状

6.暦応2年(1339)8月2日覚日譲状

7.応永24年(1417)12月13日資孝譲状

などの文書により、両職は孝時より貞孝に伝わり、以下その子孫に伝えたという。これが北島氏である。ただしこの間、孝時の後、覚日の考えから、清孝は一代だけ所領所職は相伝すべく規定されている。


 ともかく国造神主家は孝時の後両派に分裂し、相抗争することとなったのであるが、今日古文書学の素養を有するものにあっては、両者何れの文書が正しく、したがって何れの申し分が史実であったか、自ずから会得せらるる所である。」

 村田博士は以上のように学問的立場を述べられておられます。本稿では両家分立のことについては以上を記して読者の皆様のご参考に供するに止め置くことにします。

上へ戻る

7.出雲国造北島家と大庭の里

 松江市大庭地区は「八雲立つ風土記の丘」があり、また旧国庁跡も発見されていて、出雲国の中心地であったということは定説となっています。出雲国造北島家では、この大庭の地を出雲国造家発祥の地と伝えていますが、このことは一般にあまり知られていないようですのでここに記すことにします。

 出雲国造北島家に伝わる系図の第26世国造果安の項に次のような記事があります。「続日本紀元正天皇霊亀2年(716)2月丁巳、出雲国造外正七位上出雲臣果安、斎(とき)おわり神賀詞を奏し、神祇大副中臣朝臣人足、その詞を以って奏聞す、この日百官の斎か。果安より祝部に至り百十余人に位を進し禄を賜う。各差(しな)あり。伝に云く、始祖天穂日命斎(いつき)を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移すと云々。」

 この記録から見ると出雲国造家は、25世国造兼連臣(一説では23世国造帯許臣)まではその居住の地は今の松江市大庭にあり、26世国造果安の時代に現在の大社町杵築の地に移住されたことを証明していると思われます。

 出雲国造家は杵築に移住した後も大庭との関係が続いています。例えば、大庭にある神魂神社で例年12月に斎行される古伝新嘗祭(しんじょうさい)には北島・千家両国造が参列し、幣帛を供進し、玉串を捧げて拝礼する習わしになっています。また、神魂神社の正遷宮祭には北島貴孝第78世国造が正装で参列し、奉幣行事を斎行いたしました。

 そのほか、意宇6社(古代の意宇郡に相当する地域にあり、とくに出雲国造家にゆかりのある6つの神社)中、八束郡東出雲町の揖屋神社、松江市山代町の真名井神社、大草町の六所神社、佐草町の八重垣神社及び玉湯町の玉造湯神社の戦後の遷宮にあたっては、古例に従って第79世英孝国造が参向し、幣を捧げ玉串を奉って拝礼いたしました。

 また、平成17年、第79世英孝国造が帰幽されたのに際し、現第80世建孝国造は神魂神社において古例に則った神火相続の重儀を斎行されました。

上へ戻る

8.出雲国造家の家名

 上代には姓氏はありましたが苗字(家名)はなく、出雲国造家は第17世宮向国造のとき出雲という姓氏を賜り、これを伝承してきました。中古に姓氏の他に苗字を用いる習慣が生じ、苗字としてその家の家族が居住する地名や、所領の地名を併せて称えることが始まり、いつしか姓氏を称えないで苗字だけを用いるようになったと云われています。北島の家名もこの苗字の発生と時を同じくし、中古以来用いたと察せられます。

 北島家の家伝によりますと、往古は松江の水海(宍道湖・中海のことか)は今の杵築の西に広がる大社湾に通じ、大庭の地から見ると今の北山山系は離れ島の如き地形だったので北根島と呼び、杵築に移住した出雲国造家を始めは北根島の国造と呼んでいましたが、やがて北島の国造と呼ぶようになったと伝えています。

 出雲国風土記が編纂された頃の出雲地方の地形といえば今の簸川平野の西半分は神西湖で、ここに菱根池を経た斐伊川が東から、神戸川が南から流れ込んでいてほとんどが湿地帯であり、北山山系は一見島の如き様相であったと考えられますので、出雲国造家を北根島の国造、転じて北島の国造と称したこともうなずけるように思われます。

 また、北島という姓は古文書に記載されているという事実があります。

大同3年(808)に編さんされた医薬書『大同類聚方』(だいどうるいじゅうかた)に「出雲薬、出雲国意宇郡人大神臣佳成所上朝家之方国造北島連等之所世伝也」(旧帝国図書館本巻三)、「見薬又出雲国造北島之方元貴神方也」(同本巻二十二)とあり、国造家の姓は臣ですので連としてあるのは誤りとしても、これら北島の姓は出雲国造家を指すと推察されます。

大同3年当時の出雲国造は第32世の人長国造で、神賀詞奏上が続いており、出雲国造家が北島・千家に分立するより25代も昔のことで、その頃から国造家が北島を称したことは家系を考える上からたいへん重要な点ですので書き留めておきます。

上へ戻る

9.出雲国造家の通り名

 出雲大社北島国造家は、安元2年(1176)に出雲大社の仮殿遷宮を斎行された第48世国造宗孝臣以来、通り名として「孝」(のり)を用いてきました。現第80世建孝(たけのり)国造まで実に百数十年を数え、代数にして32代に及んでいます。国造家が両家に分立したのが康永2年とすれば、分立の167年前、代数にして8代も前から「孝」の字を使用して今日に及んでいるわけです。

 『神道大事典』には出雲国造の系譜が次のように紹介されています。

 天穂日命―武夷鳥命―櫛瓊命―津佐命―櫛鄷前命―櫛月命―櫛鄷鳥海命―櫛田命―知理命―毛呂須命―阿多命―氏祖命―襲髄命―来日田維穂命―三島足奴命―意宇足奴命―宮向―布奈―布禰―意波苦―美許―叡屋―帯許―果安―広島―弟山―益方―国成―人長―千国―兼連―旅人―豊持―時信―常助―氏弘―春年―吉忠―国明―国經―頼兼―宗房―兼宗―兼忠―兼經―宗孝―孝房―孝綱―政孝―義孝―泰孝―孝時―清孝

 清孝より孝宗(千家氏)貞孝(北島氏)の両家出づ。

(北島氏)

貞孝―資孝―幸孝―高孝―利孝―雅孝―秀孝―久孝―廣孝―晴孝―恒孝―兼孝―道孝―直孝―惟孝―明孝―宣孝―起孝―従孝―全孝―脩孝―齋孝―貴孝

(千家氏)

 孝宗―直国―高国―持国―直信―高俊―豊俊―高勝―直勝―慶勝―義廣―元勝―尊能―尊光―尊房―直治―宗敏―廣満―豊昌―豊實―俊勝―俊秀―尊之―尊孫―尊澄―尊福―尊紀―尊統

上へ戻る

10.出雲国造北島家の専掌祭事

 出雲国造家が北島・千家に両立してから後の出雲大社の神事は、年中を6ヶ月ずつに分けて分掌することになりましたが、北島国造家は神在祭(かみありさい)の行われる10月を頭(かしら)に12・2・4・6・8の偶数月の神事・社務を担当するほか、3月3日の三月会(え)の一番軸となる始めの祭典・五月会のときは5月5日に斎行される初日の祭・また九月会のときは9月9日に斎行される一番大切な初めの祭儀等、有限の神事(昔から祭儀次第が限定=規定された祭事)や、その祭事に伴う社務は北島国造家がもっぱら掌(つかさど)っていました。

 この三月会の一番の軸となる三番饗(きょう)・五月会・九月会の頭(最初)の祭の儀式は盛大を極め、出雲大社の70余度の祭礼の中でも最も重要な祭りだったと伝えられています。

 また、旧10月は諸国では神無月といい、出雲では神々ことごとく出雲大社に神幸し集会をなさるという故事から、神在月と称えて神秘の月でありました。出雲大社ではこの10月11日より17日まで神在祭を斎行し、「北島国造及び上官等は庁舎に斎宿(心身を浄め、食事その他に気を配って宿泊)して歌舞を設けず(唄ったり舞ったりしないで)、楽器を張らず、宮殿を掃はず(神社・庁舎等の掃除をしないで)、第宅(だいたく)を営(いとな)まず(屋敷の建築をしないで)、臼杵相(うすきねあ)はず(餅をつく音も出さないで)、巷歌(こうか)せず(民家でも歌を歌うのを慎んで)」静粛の中に祭典を斎行し、また神々の会議のお邪魔にならないようにして暮らし、10月26日の夜、神等去出(からさで)神事(神々が出雲から各地に旅立たれる神事)を斎行していました。

 以上のことは、すでに記しましたように、出雲大社の御祭神・大国主命が目に見えない幽(かく)りたることをお治め下さる御神徳(宗教面から皇室、国民の弥栄を支えられる御神徳)の精神をよく表している神道の神秘の祭事であり、古代から伝わったものとして、北島国造家では今もその精神を尊重しています。

 ついでですが、出雲大社の古い御櫛笥筥(みくしげばこ)に散らし書いてある紋が亀甲(きっこう)に有(十月)とあるのも、この神在月が出雲大社にとってたいへん重要なお祭りであったことを表していると考えられます。

 この亀甲に有の字の神紋は、平安朝より足利時代までのものは亀甲の形が縦に細長く、それ以後のものは正六角形となり、二重亀甲に剣花菱(けんはなびし)の紋は出雲大社の神紋で、両国造家の紋も同じです。

上へ戻る

11.南北朝動乱と貞孝国造

 第56世国造貞孝臣の在職中は、南北朝の争いの真最中でした。南朝・北朝その勢力は一進一退でしたが、興国4年(1343)の末より正平に及ぶ間は一時南朝がその勢力を回復し、足利氏の内部では兄弟叔姪(しゅくてつ)の不和が原因でその勢力は弱まっていました。この時代、足利直冬は南朝の味方となって石見の国から伯耆の国に入り、山名時氏と手を結び、正平9年(1354)出雲の北朝党を攻略いたしました。この時、貞孝国造は南朝に味方しましたので、同年9月10日、直冬よりそのお忠節を賞する書状を受けております。また、正平12年(1357)正月、貞孝国造は目安言上書を奉って、御村上天皇より下記の3通の綸旨(りんじ:天皇の命を受けて蔵人が書いた文書)を授かり、後村上天皇は出雲大社の御造営並びに三月会のことを貞孝に仰せ付けになっています。

(1)杵築大社仮殿御造営並びに三月会の事、奏聞の処、早く先例に任せその沙汰を致せしむべきの由、貞孝に下知せしめ給うべきの旨、天気候ところなり。この旨を以て洩れ申せしめ給うべし、仍て言上くだんの如し、光資誠恐頓首謹言。
  正平十二年(1357)六月十七日
  進上丹後守殿                      右大弁光資奉

(2)杵築大社造営の事、先度注進に就き、貞孝に仰せ下すべきの旨仰せらるの処、今左右を申さず、何様の事や。造営延引に及ぶの条、はなはだ以て然るべからず。不日遵行(じゅんぎょう)の沙汰を致すべし、てへれば、天気かくの如し、これを悉(つく)せ以て状す。
  正平十二年九月十八日            右大弁(葉室光資)(花押)

(3)杵築大社造営の事、重ねて守護に仰せらるるところなり。急速その沙汰を致すべし。てへれば、天気かくの如し、これを悉せ以て状す。
  正平十二年九月十八日            右大弁(葉室光資)(花押)
  北島六郎(貞孝)館

 このように3通の御綸旨をお受けはしたものの、当時は南北朝動乱の世情で造営のことは実現しないで後代のこととなります。しかし、これらの御綸旨は、貞孝国造が出雲大社並びに南朝に忠節であったことを証するもので、北島家もこれを家宝として今もその精神を大切に継承するものであります。なおこれら3通の御綸旨はいずれも重要文化財で、村田正志編『出雲国造家文書』に収められています。

上へ戻る

12.資孝国造の出雲大社遷宮執行

 第57世出雲国造資孝臣は、父貞孝の後継者として貞治3年(1364)国造職に就任いたしました。資孝国造は翌4年10月、目安言上書(箇条書きの文書)を将軍家へ提出しました。その内容は、第55代清孝のあと、第56代貞孝(北島)孝宗(千家)と国造家が分立以来、出雲大社の御遷宮が延び延びになって、後村上天皇より前項のように貞孝にご下命になっていたことが未だ実行されていないので、速やかにこの遷宮を貞孝の嗣子である資孝に命じてほしい旨が記されていると推察されます。右に対し足利義満将軍の管領細川頼之より応安元年(1368)9月9日付けで出雲大社宛に次のような公文書が届いています。

 出雲国杵築大社仮殿造営の事、先例にまかせ当国段米(たんまい)を以てその功を終るべきの由、守護人に仰さるところなり。早く急速の造功を遂げるべきの状、仰せにより執達くだんの如し。
  応安元年九月九日             武蔵守(細川頼之)(花押)
  当社神主(北島資孝)殿

 しかし、このような書面が着いてもなお13年の間御遷宮は実行されませんでした。そこで永徳元年(1381)4月2日将軍足利義満より次のような御沙汰が発せられました。

 出雲国杵築大社仮殿、造替あるといえども、国造職相論により、遷宮今に延引の条はなはだ然るべからず。早く遷宮を遂げ奉らるべし。本訴に於いては、急速申沙汰せしむべきの状くだんの如し。
  永徳元年四月二日             隠岐守(山名義幸)(花押)
  国造北島(資孝)殿

 こうして、その後5年経過した元中3年(1386)10月28日、資孝国造が仮殿式遷宮を斎行し、多年の間未解決のままであった遷宮がやっと成し遂げられたのです。この遷宮は、国造家が北島・千家に分立した後の初めての遷宮であったことに意味があると思われます。

上へ戻る

13.寛文御造営にともなう屋敷替え

 第66世恒孝(つねのり)国造が承応3年(1654)に国造職に就任された時代は、日本の政権は織田、豊臣を経て徳川氏に移り、出雲の国も徳川家康の孫、松平直政が藩主として善政を敷き、名君として大衆から信頼されていた時代でした。
 この直政公は生来敬神の念が厚い方でしたが、寛文年間に徳川幕府に出雲大社の正遷宮を進言してこれが幕府に入れられ、官銀50万両(現在の通貨では約200億円相当)を以て御造営がなされることに決定しましたが、直政公はこの御造営の好機に境内を拡張しようと計画され、それまで出雲大社の御本殿の裏、八雲山の麓にあった出雲国造家の屋敷を、吉野川の東に移転するように恒孝国造にすすめられました。恒孝国造は熟慮の結果、境内拡張という大義のために直政公の屋敷替えの申し入れを承諾されました。
 このことが決定したのは寛文2年(1662)8月15日であったことが、下記の直政公の家老塩見小兵衛から恒孝国造に宛てられた古文書によって明らかであります。

 今度その御社御正殿御造営仰せ出され候に付、御宮の後地田を詰めるを以て、自然の火難如何に候の間、貴様御屋敷を御宮の左東の方へ御替え成され然るべしと、直政公思し召し、絵図を以て、井上河内守殿・加々爪甲斐守殿へ御相談遊ばされ候処に、一段然るべきの由、各御儀定成され候。もっとも公儀より御普請仰せ付けられ遂げらるべく候。往古よりの御屋敷をこの節居替成され候事、御宮地に成り、御宮永代のために御座候へば、御名誉の至りに候、目出度く存じ奉り候、なお御両使に演説さすべく候、恐惶謹言。
  寛文二寅                    塩見小兵衛
  八月十五日                     屋成(花押)
国造北島殿

 以上の結果として、出雲国造家は寛文4年(1664)12月13日、八雲山々麓の旧宅から現在の亀山々麓の新宅に移転しました。
 なお、直政公『御社参日記』の寛文4年5月5日の条に下記の如く記されているのは注目に値します。
 「太守公御社参の間と云々、それより御造営の御物語のついで、恒孝へ大事の屋敷おしく候はんに、御替候の新地の儀御望みのままに奉行共進すべく候間、御心安かれと御意を成され候。恒孝御神剣御持参し御頂戴成され候と云々」
 この記事から直政公の出雲大社の境内地拡張の強い希望が感じられる一方、恒孝国造が出雲大社のことを第一に考え、私心を離れて直政公の希望に応えられたことを知ることができます。
 この寛文の御造営こそ現在の出雲大社銅鳥居内の規模であり、「御本殿」「境内摂社」「十九社」「楼門」「八足門」「玉垣」「瑞垣」「荒垣」等は、その後、延享の御造営、文化、明治、昭和のお屋根替遷宮のとき改築或いは修理が行われましたが、大きな変化はないようです。寛文の御造営が出雲大社にとって大切なことは、神仏習合の慣習を一新し、その建物を全て古式に復し、神宮寺を廃し、境内の仏教施設を他の地に移すなど、その精神は復古、即ち神道古来の精神に立って行われたことを窺い知ることが出来ることです。
 なお、この寛文の御造営で建立された拝殿、庁舎は昭和28年遷宮奉祝祭中の5月28日に失火により焼失し、そのあとに現庁舎、拝殿が建立されたことを申し添えておきます。

上へ戻る

14.霊元天皇永宣旨の御下賜

 寛文5年(1665)徳川幕府は全国の神職に対し「吉田家の許し(許状)を受けなければ正規の神職として認めず、神社の雑役人にその身分を下げる」旨の文書を示達いたしました。
 この幕府の示達に対し、時の第66世恒孝国造は、翌寛文6年4月、朝廷に出雲国造家の神代以来の家格を明細に述べ、「出雲国造家はこの度の幕府の示達から当然除外されて然るべき旨」を奏上いたしました。この奏上を受けて、時の天皇、霊元天皇は恐れ多くも下記の永宣旨(えいぜんし)を御下賜なさいました。

 「出雲国造は本寿詞(よごと)を奏し、恒に潔敬を異にし、神のため自重す、すなわちすべからく永くその職を掌るべきなり。また兼ねて文は天に風調し、慎みて撫教布信の有典を徴し、武日道泰、いよいよ仁寿無彊の祝延を符(しる)す、政術に順(したが)い善化す。これ象を北辰に取り、磐石盛治を安ずる、猶慶を南極に徽すがごとし、喜感遂に通じ、瑞応斯に表われる、宜しく誠款を効(いた)すべし、夙夜口に心祷を祝(のっと)すのみ。然れば則ち社中の進退においてなり、事巨細(こさい)無くその制度を規倣すべしとてへり。天気此くの如し。仍つて執達くだんの如し。
  寛文七年五月七日
  国造館                         左少弁(草名)
  出雲国造館                       左少弁(草名)」

 上の永宣旨を前出の村田正志先生は『出雲国造家文書』の中で次の如く要約しておられます。
 「国造家は古来の由緒に基いて、大社の神職を永く掌るべきこと、及び社中の進退は巨細となくその制度に規倣すべしというにある。即ち大社の祭祀と大社に於ける一切の支配権を、永久に国造家に付与することを確認されたのである。ここに本文書の重大なる意義が存する次第である。以上の事実は別に事新しいことではなく、従来とも厳重に守られて来たのであるが、この時大社の正殿式の造営が完了し、正遷宮も滞りなく執行されたに際して公認されたのである」
 以上の如くこの文書が出雲国造北島家に国指定文化財として今も秘蔵されていることは「出雲大社」並びに「出雲国造両家」にとって大きな誇りであり名誉なことと思われます。

上へ戻る

15.明治維新と出雲国造家

 明治維新はわが神社界にとってもそれまでにない大改革をもたらしました。すなわち、神社の国家管理という基本方針のもとに次々と施策がうち出され、それによって杵築大社改め出雲大社(明治5年太政官通達)の場合も、官幣大社として格付けされる反面、従来のような両国造制のもとで隔月交代に奉仕することが認められなくなりました。
 かくして明治5年正月、北島全孝(たけのり)国造は千家尊澄(たかすみ)国造とともに御杖代(みつえしろ)の世襲職を免ぜられ、改めて脩孝(ながのり)国造と千家尊福(たかとみ)氏とがともに出雲大社少宮司に任じられました。しかし、いかなるわけか、―おそらくいろいろと経緯があったと思われますが―明治6年3月、脩孝国造は再度明治政府の命により岡山県の吉備津神社宮司に転勤を命ぜられ、千家尊福氏が出雲大社宮司に任命されたのであります。ここに及んで脩孝国造の心中は察するに余りあるものといえましょう。いかに政府の命とはいえ、わが北島国造家の伝統を無視しての命令にどうして従うことができましょうか。脩孝国造は断固としてこの任命を拒まれました。(脩孝国造帰幽の際の誄詞には―同年3月吉備津神社の宮司に任じられ、願によりその職を免ぜられ―とある)
 しかし、このことは時の神社を支配する明治政府という大きな権力に背くことであり、自然のなりゆきとして北島家は出雲大社への直接の奉仕を離れる結果となり、以来いろいろ曲折を経て今日に及んでいる次第です。その詳細を一々述べることは差控えますが、次の二つのことだけは明記しておきましょう。
 その一つは、明治5年に先立つ版籍奉還までは、北島・千家両家はともに松江藩を通じて対等の家禄を安堵されていました。それが維新の改革によってすべて失われましたが、出雲大社は官幣大社として財政的にも国家の保護を受け、その体制は昭和の終戦まで続くのであります。
 次にその二は、わが北島家は不幸にも明治維新の一番大事な時期、すなわち明治5年正月にその家屋敷の全部を焼失しました。(もっとも、四脚門・大門と土蔵・文庫は類焼をまぬがれ、伝来の古文書、その他の家宝は現存しています)
 このような二つの大きな打撃を受けたとき、前述の吉備津神社転勤問題が起こるのであります。今日冷静に考えるとき、脩孝国造はよくぞこれらの大打撃に打ち克ち、出雲大神への奉仕とその教化という、わが家の伝統を貫かれたと思います。すなわち、脩孝国造は明治に入っていち早く出雲大社崇敬講社を千家尊福氏とともに組織されていましたが、千家尊福氏がその講社を千家邸に移され「大社教」(今の出雲大社教)に改組されたとき、脩孝国造は尊福氏と袂を分かち、北島邸に「出雲教会」(今の出雲教)を組織し、出雲教会を主宰し、出雲大神を奉斎し、島根県内はもとより全国にわたる信徒の信を得て、よく今日の出雲教の基を築かれました。以後出雲教が発展しつつ今日に及んでいることは周知のとおりです。
 なお、明治以後昭和20年の敗戦まで、千家家の方もそうでありましたが、わが北島家も華族に列せられ、男爵を授かっていました。その間、第77世斎孝(なりのり)国造、第78世貴孝国造はともに出雲教大教主として神勤奉仕する一方、貴族院議員としても奉公し、ともに従三位に叙せられました。
 前英孝(ふさのり)国造は昭和28年斎行の出雲大社昭和の大遷宮に出雲国造家嗣子として、時の国造貴孝又千家尊祀宮司を補佐し、その祭儀に神勤奉仕し、続いて生じた出雲大社拝殿、庁之舎の炎上後の復興にあたっては、復興奉賛会理事としてその目的達成に誠心を尽し、再建に全力を注がれました。
 現建孝(たけのり)国造は平成17年に国造を継承し、家門の伝統を負われて今日にいたっています。また、平成20年4月に斎行された出雲大社平成の大遷宮事始めの仮殿遷座祭に御奉仕なされると共に、平成大遷宮完遂に出雲教挙げて支援されています。

上へ戻る

16.出雲国造家系譜

始  祖 天穂日命
第 2世 武夷鳥命(たけひなどり)
第 3世 伊佐我命
第 4世 津狭命
第 5世 櫛瓺前命(くしみかさき)
第 6世 櫛月命
第 7世 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ)
第 8世 櫛田命
第 9世 知理命
第10世 世毛呂須命
第11世 阿多命 また出雲振根と名のる
第12世 氏祖命(おほし)
第13世 襲髄命(そつね)
第14世 來日田維命(きひたすみ)
―野見宿禰 姓氏録に曰く、天穂日命14世孫野見宿禰、菅原氏
第15世 三島足奴命(みしまそまぬ)
第16世 意宇足奴命(おうそまぬ)
第17世 国造出雲臣宮向
家乗の一本に云く、反正天皇の4年国造と為し始めて出雲姓を賜わる
第18世 国造出雲臣布奈
第19世 国造出雲臣布禰
第20世 国造出雲臣意波久
第21世 国造出雲臣美許
第22世 国造出雲臣叡屋
第23世 国造出雲臣帯許
第24世 国造出雲臣千国
第25世 国造出雲臣兼連
第26世 国造出雲臣果安
続日本紀元正天皇霊亀2年(716)2月丁巳、出雲国造外正七位上出雲臣果安、斎竟わり神賀詞を奏し、神祇大副中臣朝臣人足、その詞を以て奏聞す。この日百官の斎焉、果安より祝部に至り一百一十余人に位を進し禄を賜う。各差(しな)あり。伝に云わく、始祖天穂日命斎を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移すと云う。
第27世 国造出雲臣広島
聖武天皇神亀元年(724)春正月戌子、出雲国造外従七位下出雲臣広島神賀詞を奏す、云々
第28世 国造出雲臣弟山
天平18年(746)3月巳未、外従七位下出雲臣弟山に外従六位を授け、出雲国造と為す。孝謙天皇天平聖宝2年(750)2月癸亥、出雲国造外正六位下出雲臣弟山神斎賀事を奏す。3年2月乙亥、出雲国造臣弟山神賀事を奏し、位を進め物を賜わる
風土記、意宇郡新造院1所、山代郷中にあり、郡家西北2里、厳堂を建立す。飯石郡少領出雲臣弟山これを造るところなり
第29世 国造出雲臣益方
廃帝天平宝字8年(764)春正月戊午、外従七位下出雲臣益方を以て国造と為す。称徳天皇神護慶雲元年(767)2月甲午、出雲国造外従六位下出雲臣益方神事を奏す。すなわち益方に外従五位下を授ける。自余の祝部等、位を叙し物を賜わる差(しな)あり
2月春正月庚辰、出雲国造外従五位下出雲臣益方神事を奏し、外従五位上を授かる。祝部の男女159人を賜わる。爵各1級、禄またあり
第30世 国造出雲臣国上
光仁天皇宝亀4年(773)9月庚辰外従五位下出雲臣国上を以て国造と為す
第31世 国造出雲臣国成
桓武天皇延暦4年(785)2月癸未、出雲国造外正八位上出雲臣国成等神吉事を奏す。その儀常の如し。5年2月己巳、出雲国造出雲臣国成神吉事を奏す。その儀常の如し。
第32世 国造出雲臣人長
延暦9年(790)夏4月癸丑、従六位下出雲臣人長を以って出雲国造と為す(続日本紀)。延暦14年(795)2月甲子、出雲国造外正六位上出雲臣人長、特に外従五位下を授ける。遷都に縁(よ)るを以って神賀事を奏するなり(類聚国史第十九)
第33世 国造出雲臣門起
延暦24年(805)9月壬辰、出雲国造外正六位上出雲臣門起外従五位下を授かる(日本後紀)
第34世 国造出雲臣旅人
弘仁2年(811)3月辛酉、出雲国造外従七下出雲臣旅人外従五位下を授かる。神賀事に縁るなり。3年3月癸酉、大極殿に御し、出雲国造外従五位下出雲臣旅人神賀辞を奏す。並に献物あり。禄を賜わること常の如し
第35世 国造出雲臣豊持
天長7年(830)夏4月甲辰朔、乙巳、皇帝大極殿に御し、出雲国国造出雲臣豊持献ずるところの3種神宝、兼て出すところの雑物を覧(み)る。宮に還り豊持に従六位下を授ける(以上並類聚国史)
(続日本後紀)天長10年(833)夏4月壬午、出雲国司国造出雲豊持等を率い、神寿を奏す。並に白馬1匹、生雉1翼、高机4前、倉代物50荷を献ず。天皇大極殿に御してその神寿を受ける。国造豊持に外従五位下を授ける。
第36世 国造出雲臣時信
第37世 国造出雲臣常助
第38世 国造出雲臣氏弘
第39世 国造出雲臣春年
第40世 国造出雲臣吉忠
後一条天皇長元9年(1036)丙子10月18日、造大社既に成る。遷宮式を行う
第41世 国造出雲臣国明
第42世 国造出雲臣国経
後冷泉帝康平4年(1061)辛丑12月、社壇の傾倒を以って、急ぎ仮殿を修す。遷宮式を行う
5年壬寅4月22日、再び仮殿を修し遷宮式を行う。治暦3年(1067)丁未2月朔日己酉、大社正殿を経営し、遷宮式を行う
第43世 国造出雲臣頼兼
第44世 国造出雲臣宗房
系譜、堀河天皇康和元年国造と為す。同年逝く
第45世 国造出雲臣兼宗
康和元年嗣、2年庚辰3月5日国造に任ず
鳥羽天皇天仁元年(1108)戊子3月社壇傾倒、11月9日乙卯仮殿を修し成る。遷宮式を行う。永久2年(1114)甲午7月6日再び仮殿を修し、遷宮式を行う。3年乙未6月18日正殿を経営し、遷宮式を行う。既に畢(おわ)りて神託を宣す。これに於いて更に神殿を修す。10月26日丁卯再び遷宮式を行う
第46世 国造出雲臣兼忠
崇徳天皇保延7年(1141)辛酉6月神殿傾倒、神体を竃殿に遷し、官使左少史大江元重等その事を検察す
近衛天皇康治元年(1142)壬戌11月仮殿を修し、遷宮式を行う。2年3月19日の宣旨、官使左史生紀良時来る。左弁官出雲国に下す文、載(しる)して大社志にあり
久安元年(1145)10月4日の宣旨、官史伊岐致兼・神祇史生秦重時等を遣わし覆勘(ふかん)す、左弁官下文、また大社志に載す。11月25日正殿を経営し、遷宮式を行う
5年己巳11月28日国造館災(そこな)う、前世の旧籍悉くここに焚滅す
第47世 国造出雲臣兼経
高倉天皇承安2年(1172)壬辰11月19日、仮殿を修し、遷宮式を行う
第48世 国造出雲臣宗孝(むねのり)
安元2年(1176)丙申11月29日仮殿を修し、遷宮式を行う。元暦元年(1184)10月28日、大将軍源頼朝出雲杵築社書、北島館に蔵す
第49世 国造出雲臣孝房(のりふさ)
東鑑則房と作(な)す。後鳥羽天皇文治元年(1185)11月3日国造と為る。庁宣、建久元年(1190)庚戌6月29日正殿を経営し、遷宮式を行う
第50世 国造出雲臣孝綱(のりつな)
土御門天皇元久2年国造と為る
―弟 経孝(乗光寺開祖)
第51世 国造出雲臣政孝(まさのり)
後堀河天皇嘉禄3年(1227)丁亥6月24日、仮殿を修し遷宮式を行う
第52世 国造出雲臣義孝(よしのり)
四條天皇嘉禎元年(1235)乙未11月2日神殿傾倒、急ぎ仮殿を修し神体を安ず。後深草天皇宝治2年(1248)戊申10月27日、正殿を経営し、遷宮式を行う。亀山天皇文永8年(1271)正月2日神殿災う、仮殿を修し、神体及び神宝を遷す
第53世 国造出雲臣泰孝(やすのり)
後宇多天皇弘安5年(1282)壬午10月28日、仮殿を営み、遷宮式を行う。 室佐々木次郎左衛門貞清女、塩冶判官高貞姉、謚(おくりな)覚日
第54世 国造出雲臣孝時(のりとき)
後醍醐天皇元亨4年(1324)甲子2月16日、仮殿を営み、遷宮式を行う。元弘3年(1333)閏2月、天皇隠州より逃がれ出、伯州船上山に潜幸す。綸旨を下し神廟所蔵の宝剣を需(もと)む。これに於いて孝時神代所伝の双剣の一を行在所(あんざいしょ)に献ず。その綸旨に曰く、宝剣の代わりとして用いられんがため、旧(いにしえ)の神宝の内御剣あらば、渡し奉るべし、てへれば、綸旨かくの如し、これを悉(つく)せ。三月十七日、左中将花押、杵築社神主館
―孝景(上官森脇祖)
第55世 国造出雲臣清孝(きよのり)
俗称三郎、後醍醐天皇建武3年(1336)国造と為る。光明天皇康永2年(1343)逝く。在職8年、一期の人なり
―国造出雲孝宗
 俗称五郎、清孝同母弟
 別家の国造と為し、千家を以って氏と為す
第56世 国造出雲臣貞孝(さだのり)
小字阿加古麿、通称六郎、清孝同母弟、北島を以って氏と為す。康永2年(1343)国造に任ず。初め孝時嫡子清孝は多病、しこうして次子孝宗また五体不具を以ってこれを廃す。第3子貞孝を以って定めて嗣と為し、譲職の遺令を作り、以ってこれに貽(のこ)す。既に母氏覚日及びその夫人妙善の交請に曰く、清孝多病と雖も既に嫡子たり、請うらくは清孝に使し、一期の間襲職して後に伝えて貞孝に至るべからずか。孝時曰く諾。これに於いて孝時の没後、清孝国造と為る。然るに在職8年の後、清孝病歿。これを以って貞孝天朝に請い父の遺令を以って襲職を得る。大庭神魂の社頭に於いて、神火神水の式を挙げ国造と為り、家督の相続完了す。孝宗国造たらんと欲し、山名出雲守護代僧厳覚の援助により、旧(いにしえ)の検校中原家の屋敷跡に出所し、別ち立つ国造と為る。これ両家分立の所以(ゆえん)なり
―景孝 小字孫太郎、父の遺令を守り、北島家に属し、向氏を冒す。子孫富村を食邑とし、因(よ)りて或いは富氏と称す。向上官元祖
第57世 国造出雲臣資孝(すけのり)
後小松天皇至徳3年(1386)国造と為る
第58世 国造出雲臣幸孝(ゆきのり)
称光天皇応永28年(1421)国造と為る
第59世 国造出雲臣高孝(たかのり)
 後花園天皇永享10年(1438)国造と為る。後土御門天皇文明17年(1485)逝く。享年80有1
第60世 国造出雲臣利孝(としのり)
第61世 国造出雲臣雅孝(まさのり)
文亀2年国造と為る。天文18年(1549)8月16日逝く。寿70又8、室尼子経久女
第62世 国造出雲臣秀孝(ひでのり)
天文18年国造と為る。永禄11年(1568)9月8日逝く。寿70又3
第63世 国造出雲臣久孝(ひさのり)
永禄11年国造と為る。文禄2年(1593)閏9月7日逝く。室波根伊豆守女、名嘉多子
第64世 国造出雲臣広孝(ひろのり)
文禄2年閏9月国造と為る。正保5年(1648)戊子正月16日逝く。寿60有4。室日御碕検校小野元政女、改名玄光院殿
第65世 国造出雲臣晴孝(はるのり)
正保5年正月国造と為る。承応3年(1654)甲午8月6日逝く。室堀尾山城守高階忠晴家老赤穴城主松田左近源吉久女、吉久禄1万8千石
第66世 国造出雲臣恒孝(つねのり)
承応3年甲午8月国造と為る。寛文7年(1667)丁未3月晦日大社正殿を経営し、遷宮式を行う。9月10日永宣旨を賜わり、その文載して大社志にあり。寛文造営に当たり、八雲山山麓の地の一統国造以来の居館地より、亀山山麓の現大社東境の地に移転す。延宝7年(1679)己未5月15日逝く。寿50又1。室松江候国臣栂半左衛門女
第67世 国造出雲臣兼孝(かねのり)
延宝7年5月国造と為る。元禄10年(1697)故ありて退職。寛保2年(1742)壬戌3月6日逝く
第68世 国造出雲臣道孝(みちのり)
元禄10年9月国造と為る。亨保15年(1730)庚戌9月13日逝く。元室南部氏女、次室鈴村氏女
第69世 国造出雲臣直孝(なおのり)
亨保15年9月国造と為る。天明4年(1784)甲辰8月24日逝く。元室団氏、次室祝氏
第70世 国造出雲臣惟孝(ただのり)
天明4年9月朔日国造と為る。寛政3年(1791)辛亥正月20日逝く。寿50有1。元室冷泉中納言為村卿女、名樹姫。次室石見国造金子某女、名繁子
第71世 国造出雲臣明孝(あきのり)
寛政3年正月国造と為る。享和3年(1803)癸亥閏正月17日多病を以ってすなわち老いる。在職13年。時に年32。旅人と称し、更に好孝と名のる。室鷲尾大納言隆建卿女、名富貴姫
第72世 国造出雲臣宣孝(のぶのり)
享和3年正月国造と為る。文化2年(1805)乙丑閏8月3日逝く
第73世 国造出雲臣起孝(おきのり)
文化2年閏8月国造と為る。4年丁卯6月25日逝く。室松江世臣羽田武右衛門女
第74世 国造出雲臣従孝(よりのり)
文化4年6月28日国造と為る。夫人上官森脇弘人孝唯女
第75世 国造出雲臣全孝(たけのり)
通称神健彦、始め名を順孝(としのり)と称す。従三位。明治19年(1886)6月18日薨。享年84。元室日御碕検校小野尊道女、名伊予姫。次室甘露寺一位国長卿女、名淑子。明治19年10月2日夫人逝く
第76世 国造出雲臣脩孝(ながのり)
明治5年(1872)神社改正令により、大社奉仕の世襲職を解かれる。華族に列す。明治17年7月授爵仰せ付けられ、従三位、男爵。生母従一位甘露寺国長卿女。天保5年(1834)8月4日生、明治26年(1893)3月7日薨。享年60
  以下人名のみを掲げ略記に従う
第77世 国造出雲臣齋孝(なりのり)
文久3年7月29日生。貴族院議員、従三位勲四等、男爵。大正7年11月9日薨。享年56
第78世 国造出雲臣貴孝(よしのり)
明治17年7月10日生。貴族院議員、従三位勲三等旭日章、男爵。昭和31年8月20日帰幽
第79世 国造出雲臣英孝(ふさのり)
大正14年4月16日貴孝次男として生る。昭和31年神火相続、従五位、藍綬褒賞。平成17年9月1日帰幽、享年81
第80世 国造出雲臣建孝(たけのり)
昭和33年7月30日英孝長男として生る。平成17年神火相続、現主
―世嗣大孝(ひろのり)
 平成2年10月20日生、建孝長男

上へ戻る