庭 園


 庭園の池(左側が天神社、右側が天満宮)

 北島国造家寛文の庭園

 北島国造家の西側正門から入ると、御神殿手前の芝生広場の北側に、古い庭園の池が見えてくる。切石を使った石橋の正面には天満宮がまつられ、池の西側の出島と呼ばれる突き出した部分には、ソテツが植栽されている。出島の背後にある小島には「少名毘古那神」をまつった天神社があり、背後の山の斜面には「亀の尾の滝」が落ちていて、深山幽谷の雰囲気をかもし出している。奥の三社はスギ、アラカシ、ムクノキ、タブノキ、モミなどの老木に囲まれている。




 池の西側の出島のソテツ






 北島国造家は出雲大社造り替えのために寛文四年(1664)に、本殿背後から現在の亀山の麓に移転している。造り替え直前の状況を描いた「紙本着色杵築大社近郷絵図」からは、移転前の北島国造家の状況と、現在の位置に数棟の建物が並んで建っていたことがわかる。『大社御造営日記』の寛文四年八月二十九日の記事には、旧宅広間の庭前の植木を新宅に移し植えたと述べられている。


天神社と「亀の尾の滝」







 天保年間(1830〜1843)に描かれたという江戸時代後期の「杵築惣絵図」には、社殿北側の現在の位置に池が描かれている。当時の建物は明治五年(1872)に失火によって焼失しているために、位置関係は明確ではないが、池は大広間と書院の庭園として作られたものだったと考えられる。絵図の書院と推測される建物の北側には、現在のような形で石橋が架かっていて、西側には出島が設けられているが、出島は現在よりも狭かったように見える。出島は後に拡張されて、ソテツが植えられたのではないだろうか。



三社(左から稲荷社、天穂日命社、荒神社)









 寛文四年にどのような庭園が作られたのか詳細は不明だが、現状は江戸後期までさかのぼることができる。江戸時代末期に始まり流行した「出雲流」と呼ばれた短冊石を交えた大胆な飛石の配置は、この園池には見られないことからすると、それ以前のこの地方の作庭技法が残っているといえる。






飛田範夫(庭園史研究家・長岡造形大学教授・農学博士)