始 祖 |
天穂日命 |
第 2世 |
武夷鳥命(たけひなどり) |
第 3世 |
伊佐我命 |
第 4世 |
津狭命 |
第 5世 |
櫛瓺前命(くしみかさき) |
第 6世 |
櫛月命 |
第 7世 |
櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ) |
第 8世 |
櫛田命 |
第 9世 |
知理命 |
第10世 |
世毛呂須命 |
第11世 |
阿多命 また出雲振根と名のる |
第12世 |
氏祖命(おほし) |
第13世 |
襲髄命(そつね) |
第14世 |
來日田維命(きひたすみ) |
―野見宿禰 姓氏録に曰く、天穂日命14世孫野見宿禰、菅原氏 |
第15世 |
三島足奴命(みしまそまぬ) |
第16世 |
意宇足奴命(おうそまぬ) |
第17世 |
國造出雲臣宮向 |
家乗の一本に云く、反正天皇の4年國造と為し始めて出雲姓を賜わる |
第18世 |
國造出雲臣布奈 |
第19世 |
國造出雲臣布禰 |
第20世 |
國造出雲臣意波久 |
第21世 |
國造出雲臣美許 |
第22世 |
國造出雲臣叡屋 |
第23世 |
國造出雲臣帯許 |
第24世 |
國造出雲臣千國 |
第25世 |
國造出雲臣兼連 |
第26世 |
國造出雲臣果安
続日本紀元正天皇霊亀2年(716)2月丁巳、出雲國造外正七位上出雲臣果安、斎竟わり神賀詞を奏し、神祇大副中臣朝臣人足、その詞を以て奏聞す。この日百官の斎焉、果安より祝部に至り一百一十余人に位を進し禄を賜う。各差(しな)あり。伝に云わく、始祖天穂日命斎を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移すと云う。 |
第27世 |
國造出雲臣広島
聖武天皇神亀元年(724)春正月戌子、出雲國造外従七位下出雲臣広島神賀詞を奏す、云々 |
第28世 |
國造出雲臣弟山
天平18年(746)3月巳未、外従七位下出雲臣弟山に外従六位を授け、出雲國造と為す。孝謙天皇天平聖宝2年(750)2月癸亥、出雲國造外正六位下出雲臣弟山神斎賀事を奏す。3年2月乙亥、出雲國造臣弟山神賀事を奏し、位を進め物を賜わる
風土記、意宇郡新造院1所、山代郷中にあり、郡家西北2里、厳堂を建立す。飯石郡少領出雲臣弟山これを造るところなり |
第29世 |
國造出雲臣益方
廃帝天平宝字8年(764)春正月戊午、外従七位下出雲臣益方を以て國造と為す。称徳天皇神護慶雲元年(767)2月甲午、出雲國造外従六位下出雲臣益方神事を奏す。すなわち益方に外従五位下を授ける。自余の祝部等、位を叙し物を賜わる差(しな)あり
2月春正月庚辰、出雲國造外従五位下出雲臣益方神事を奏し、外従五位上を授かる。祝部の男女159人を賜わる。爵各1級、禄またあり |
第30世 |
國造出雲臣國上
光仁天皇宝亀4年(773)9月庚辰外従五位下出雲臣國上を以て國造と為す |
第31世 |
國造出雲臣國成
桓武天皇延暦4年(785)2月癸未、出雲國造外正八位上出雲臣國成等神吉事を奏す。その儀常の如し。5年2月己巳、出雲國造出雲臣國成神吉事を奏す。その儀常の如し。 |
第32世 |
國造出雲臣人長
延暦9年(790)夏4月癸丑、従六位下出雲臣人長を以って出雲國造と為す(続日本紀)。延暦14年(795)2月甲子、出雲國造外正六位上出雲臣人長、特に外従五位下を授ける。遷都に縁(よ)るを以って神賀事を奏するなり(類聚國史第十九) |
第33世 |
國造出雲臣門起
延暦24年(805)9月壬辰、出雲國造外正六位上出雲臣門起外従五位下を授かる(日本後紀) |
第34世 |
國造出雲臣旅人
弘仁2年(811)3月辛酉、出雲國造外従七下出雲臣旅人外従五位下を授かる。神賀事に縁るなり。3年3月癸酉、大極殿に御し、出雲國造外従五位下出雲臣旅人神賀辞を奏す。並に献物あり。禄を賜わること常の如し |
第35世 |
國造出雲臣豊持
天長7年(830)夏4月甲辰朔、乙巳、皇帝大極殿に御し、出雲國國造出雲臣豊持献ずるところの3種神宝、兼て出すところの雑物を覧(み)る。宮に還り豊持に従六位下を授ける(以上並類聚國史)
(続日本後紀)天長10年(833)夏4月壬午、出雲國司國造出雲豊持等を率い、神寿を奏す。並に白馬1匹、生雉1翼、高机4前、倉代物50荷を献ず。天皇大極殿に御してその神寿を受ける。國造豊持に外従五位下を授ける。 |
第36世 |
國造出雲臣時信 |
第37世 |
國造出雲臣常助 |
第38世 |
國造出雲臣氏弘 |
第39世 |
國造出雲臣春年 |
第40世 |
國造出雲臣吉忠
後一条天皇長元9年(1036)丙子10月18日、造大社既に成る。遷宮式を行う。 |
第41世 |
國造出雲臣國明 |
第42世 |
國造出雲臣國経
後冷泉帝康平4年(1061)辛丑12月、社壇の傾倒を以って、急ぎ仮殿を修す。遷宮式を行う
5年壬寅4月22日、再び仮殿を修し遷宮式を行う。治暦3年(1067)丁未2月朔日己酉、大社正殿を経営し、遷宮式を行う。 |
第43世 |
國造出雲臣頼兼 |
第44世 |
國造出雲臣宗房
系譜、堀河天皇康和元年國造と為す。同年逝く。 |
第45世 |
國造出雲臣兼宗
康和元年嗣、2年庚辰3月5日國造に任ず
鳥羽天皇天仁元年(1108)戊子3月社壇傾倒、11月9日乙卯仮殿を修し成る。遷宮式を行う。永久2年(1114)甲午7月6日再び仮殿を修し、遷宮式を行う。3年乙未6月18日正殿を経営し、遷宮式を行う。既に畢(おわ)りて神託を宣す。これに於いて更に神殿を修す。10月26日丁卯再び遷宮式を行う。 |
第46世 |
國造出雲臣兼忠
崇徳天皇保延7年(1141)辛酉6月神殿傾倒、神体を竃殿に遷し、官使左少史大江元重等その事を検察す
近衛天皇康治元年(1142)壬戌11月仮殿を修し、遷宮式を行う。2年3月19日の宣旨、官使左史生紀良時来る。左弁官出雲國に下す文、載(しる)して大社志にあり
久安元年(1145)10月4日の宣旨、官史伊岐致兼・神祇史生秦重時等を遣わし覆勘(ふかん)す、左弁官下文、また大社志に載す。11月25日正殿を経営し、遷宮式を行う
5年己巳11月28日國造館災(そこな)う、前世の旧籍悉くここに焚滅す。 |
第47世 |
國造出雲臣兼経
高倉天皇承安2年(1172)壬辰11月19日、仮殿を修し、遷宮式を行う。 |
第48世 |
國造出雲臣宗孝(むねのり)
安元2年(1176)丙申11月29日仮殿を修し、遷宮式を行う。元暦元年(1184)10月28日、大将軍源頼朝出雲杵築社書、北島館に蔵す。 |
第49世 |
國造出雲臣孝房(のりふさ)
東鑑則房と作(な)す。後鳥羽天皇文治元年(1185)11月3日國造と為る。庁宣、建久元年(1190)庚戌6月29日正殿を経営し、遷宮式を行う。 |
第50世 |
國造出雲臣孝綱(のりつな)
土御門天皇元久2年國造と為る
―弟 経孝(乗光寺開祖) |
第51世 |
國造出雲臣政孝(まさのり)
後堀河天皇嘉禄3年(1227)丁亥6月24日、仮殿を修し遷宮式を行う。 |
第52世 |
國造出雲臣義孝(よしのり)
四條天皇嘉禎元年(1235)乙未11月2日神殿傾倒、急ぎ仮殿を修し神体を安ず。後深草天皇宝治2年(1248)戊申10月27日、正殿を経営し、遷宮式を行う。亀山天皇文永8年(1271)正月2日神殿災う、仮殿を修し、神体及び神宝を遷す。 |
第53世 |
國造出雲臣泰孝(やすのり)
後宇多天皇弘安5年(1282)壬午10月28日、仮殿を営み、遷宮式を行う。 室佐々木次郎左衛門貞清女、塩冶判官高貞姉、謚(おくりな)覚日 |
第54世 |
國造出雲臣孝時(のりとき)
後醍醐天皇元亨4年(1324)甲子2月16日、仮殿を営み、遷宮式を行う。元弘3年(1333)閏2月、天皇隠州より逃がれ出、伯州船上山に潜幸す。綸旨を下し神廟所蔵の宝剣を需(もと)む。これに於いて孝時神代所伝の双剣の一を行在所(あんざいしょ)に献ず。その綸旨に曰く、宝剣の代わりとして用いられんがため、旧(いにしえ)の神宝の内御剣あらば、渡し奉るべし、てへれば、綸旨かくの如し、これを悉(つく)せ。三月十七日、左中将花押、杵築社神主館
―孝景(上官森脇祖) |
第55世 |
國造出雲臣清孝(きよのり)
俗称三郎、後醍醐天皇建武3年(1336)國造と為る。光明天皇康永2年(1343)逝く。在職8年、一期の人なり
―國造出雲孝宗
俗称五郎、清孝同母弟
別家の國造と為し、千家を以って氏と為す。 |
第56世 |
國造出雲臣貞孝(さだのり)
小字阿加古麿、通称六郎、清孝同母弟、北島を以って氏と為す。康永2年(1343)國造に任ず。初め孝時嫡子清孝は多病、しこうして次子孝宗また五体不具を以ってこれを廃す。第3子貞孝を以って定めて嗣と為し、譲職の遺令を作り、以ってこれに貽(のこ)す。既に母氏覚日及びその夫人妙善の交請に曰く、清孝多病と雖も既に嫡子たり、請うらくは清孝に使し、一期の間襲職して後に伝えて貞孝に至るべからずか。孝時曰く諾。これに於いて孝時の没後、清孝國造と為る。然るに在職8年の後、清孝病歿。これを以って貞孝天朝に請い父の遺令を以って襲職を得る。大庭神魂の社頭に於いて、神火神水の式を挙げ國造と為り、家督の相続完了す。孝宗國造たらんと欲し、山名出雲守護代僧厳覚の援助により、旧(いにしえ)の検校中原家の屋敷跡に出所し、別ち立つ國造と為る。これ両家分立の所以(ゆえん)なり
―景孝 小字孫太郎、父の遺令を守り、北島家に属し、向氏を冒す。子孫富村を食邑とし、因(よ)りて或いは富氏と称す。向上官元祖。 |
第57世 |
國造出雲臣資孝(すけのり)
後小松天皇至徳3年(1386)國造と為る。 |
第58世 |
國造出雲臣幸孝(ゆきのり)
称光天皇応永28年(1421)國造と為る。 |
第59世 |
國造出雲臣高孝(たかのり)
後花園天皇永享10年(1438)國造と為る。後土御門天皇文明17年(1485)逝く。享年80有1。 |
第60世 |
國造出雲臣利孝(としのり) |
第61世 |
國造出雲臣雅孝(まさのり)
文亀2年國造と為る。天文18年(1549)8月16日逝く。寿70又8、室尼子経久女。 |
第62世 |
國造出雲臣秀孝(ひでのり)
天文18年國造と為る。永禄11年(1568)9月8日逝く。寿70又3。 |
第63世 |
國造出雲臣久孝(ひさのり)
永禄11年國造と為る。文禄2年(1593)閏9月7日逝く。室波根伊豆守女、名嘉多子。 |
第64世 |
國造出雲臣広孝(ひろのり)
文禄2年閏9月國造と為る。正保5年(1648)戊子正月16日逝く。寿60有4。室日御碕検校小野元政女、改名玄光院殿。 |
第65世 |
國造出雲臣晴孝(はるのり)
正保5年正月國造と為る。承応3年(1654)甲午8月6日逝く。室堀尾山城守高階忠晴家老赤穴城主松田左近源吉久女、吉久禄1万8千石。 |
第66世 |
國造出雲臣恒孝(つねのり)
承応3年甲午8月國造と為る。寛文7年(1667)丁未3月晦日大社正殿を経営し、遷宮式を行う。9月10日永宣旨を賜わり、その文載して大社志にあり。寛文造営に当たり、八雲山山麓の地の一統國造以来の居館地より、亀山山麓の現大社東境の地に移転す。延宝7年(1679)己未5月15日逝く。寿50又1。室松江候國臣栂半左衛門女。 |
第67世 |
國造出雲臣兼孝(かねのり)
延宝7年5月國造と為る。元禄10年(1697)故ありて退職。寛保2年(1742)壬戌3月6日逝く。 |
第68世 |
國造出雲臣道孝(みちのり)
元禄10年9月國造と為る。亨保15年(1730)庚戌9月13日逝く。元室南部氏女、次室鈴村氏女。 |
第69世 |
國造出雲臣直孝(なおのり)
亨保15年9月國造と為る。天明4年(1784)甲辰8月24日逝く。元室団氏、次室祝氏。 |
第70世 |
國造出雲臣惟孝(ただのり)
天明4年9月朔日國造と為る。寛政3年(1791)辛亥正月20日逝く。寿50有1。元室冷泉中納言為村卿女、名樹姫。次室石見國造金子某女、名繁子。 |
第71世 |
國造出雲臣明孝(あきのり)
寛政3年正月國造と為る。享和3年(1803)癸亥閏正月17日多病を以ってすなわち老いる。在職13年。時に年32。旅人と称し、更に好孝と名のる。室鷲尾大納言隆建卿女、名富貴姫。 |
第72世 |
國造出雲臣宣孝(のぶのり)
享和3年正月國造と為る。文化2年(1805)乙丑閏8月3日逝く。 |
第73世 |
國造出雲臣起孝(おきのり)
文化2年閏8月國造と為る。4年丁卯6月25日逝く。室松江世臣羽田武右衛門女。 |
第74世 |
國造出雲臣従孝(よりのり)
文化4年6月28日國造と為る。夫人上官森脇弘人孝唯女。 |
第75世 |
國造出雲臣全孝(たけのり)
通称神健彦、始め名を順孝(としのり)と称す。従三位。明治19年(1886)6月18日薨。享年84。元室日御碕検校小野尊道女、名伊予姫。次室甘露寺一位國長卿女、名淑子。明治19年10月2日夫人逝く。 |
第76世 |
國造出雲臣脩孝(ながのり)
明治5年(1872)神社改正令により、大社奉仕の世襲職を解かれる。華族に列す。明治17年7月授爵仰せ付けられ、従三位、男爵。生母従一位甘露寺國長卿女。天保5年(1834)8月4日生、明治26年(1893)3月7日薨。享年60
以下人名のみを掲げ略記に従う。 |
第77世 |
國造出雲臣齋孝(なりのり)
文久3年7月29日生。貴族院議員、従三位勲四等、男爵。大正7年11月9日薨。享年56。 |
第78世 |
國造出雲臣貴孝(よしのり)
明治17年7月10日生。貴族院議員、従三位勲三等旭日章、男爵。昭和31年8月20日帰幽。 |
第79世 |
國造出雲臣英孝(ふさのり)
大正14年4月16日貴孝次男として生る。昭和31年神火相続、従五位、藍綬褒賞。平成17年9月1日帰幽、享年81。 |
第80世 |
現國造出雲臣建孝(たけのり)
昭和33年7月30日英孝長男として生る。平成17年神火相続、現主
―世嗣大孝(ひろのり)
平成2年10月20日生、建孝長男。 |